「年間100曲」ペンギンスのコーライトな日々

コーライティング(Co-Writing)で年間100曲を完成させ、職業作曲家としてメジャーアーティストに楽曲提供しているペンギンスが、毎日のコーライティングで想うことを書いてます。

コーライトが生み出す「過剰さ」で、天才を超えてゆけ

こんにちは、作曲家のペンギンスです。衝動を大切にして、前回の次回予告と違う話を書きます。

 いや、すごかった。久々にすごい映画みました。
 湯浅政明監督「夜明け告げるルーのうた」です。


映画「夜明け告げるルーのうた」本編映像+予告編


 とにかく全編にわたり湯浅監督の巨大な想像力が駆動され、人魚との出会い、音楽で得られる解放、田舎の港町の情景、それらが混沌と混ざり合い、ファンタジックなストーリーに昇華していくさまは圧巻でした。2017年のいま観るべき映画としても価値がありつつ、スタンダードな名作になりえるだけの芯の強さがあり、ぼくはとても感動をうけて早稲田松竹をあとにしました。(名画座って、いいですね) 

 そして先週の話になりますが大人計画の舞台「日本総合悲劇協会 Vol.6『業音』」を観させていただきました。

日本総合悲劇協会Vol.6『業音』| 大人計画 OFFICIAL WEBSITE


 かの松尾スズキ氏による劇団「大人計画」の舞台。こちらも全編にわたり神話的とすら言える想像力が立ち上がり台詞の洪水、過剰な演出の嵐、無意味とも思えるギャグの襲来。2002年に初演だったそうですが現在の時事ネタもふんだんに盛り込みつつ、最低な悲劇を最高の喜劇に演出する2時間に夢中になりました。すげぇなぁ。演劇。溢れ出る天才の才気にやられて劇場をあとにしました。

 湯浅政明氏も松尾スズキ氏も、まごうことなき天才として高く評価されています。そしてお二人の作品に身を浸した時に「天才とは圧倒的な情報量の密度と、段違いの過剰さのことを指すのだな」という思いが去来しました。1本の映画や舞台に、何回観ても把握しきれないほどの文脈、メッセージ、演出が詰め込まれ、受け手の「単位時間あたり情報処理能力」をはるかに凌駕する質と量と速度で情報がおそいかかる。おそらく一般的な作品でそのレベルまで情報量を詰め込もうとしたら、情報と情報のすり合わせが悪くなり矛盾をきたしたり、詰め込みすぎて何も伝わらなくなったり、あるいは詰め込みと質の両立を果たそうとして作品がついに完成しなくなったりするはずです。そこを天才は軽々と超えてゆきます。なにしろ天才にとっては自らを自らの溢れる想像力の下僕にしさえすれば手をひたすら動かしてゆくだけで圧倒的な情報量が詰め込まれた密度の高い作品が仕上がるのですから。
 そんな天才たちの作品にふれ、凡人なりに触発された僕らは、だが残念ながら天才ではないゆえに表現の密度や過剰さでとうていかなわないのです。しかし、コーライトは僕らの味方です。コーライトにより複数名が創作に関わることによって、同じ1曲であっても作り込まれたサウンド、メロディー、歌詞がもつ情報量は自然と増え、天才が生み出す過剰さを軽々と超えていけるのではないでしょうか。そう、児童文学の「スイミー」で、巨大な魚に負けないように、小魚が群れを作って対抗するように。天才の過剰さ、豊潤さは、コーライトメンバー全員の力で凌駕できるのです。せっかくコーライトするからには、その中で過剰さを生み出したい、そう思いました。
 個人的にはAKBグループ、EXILE TRIBE、ボカロPコミュニティ、コーライトムーブメントは全て「プラットフォームの上で切磋琢磨の物語が生まれつつ、圧倒的な情報量でひとりの天才を凌駕するための、自然発生的or人工的な仕組み」であると思っています。これに対して宮崎駿、松尾スズキ、湯浅政明、ワンピース(尾田栄一郎)などはいずれも「属人的なひとりの天才が全てをコントロールしつつ、超人的なイマジネーションで圧倒的な情報量を叩きつける創作」といえるでしょう。この両極があるからこそ、現代のクリエイティビティが成り立っているのかもしれない。そんな風に自分の考えをアップデートすることができた今日この頃です。

【次回予告】
次回は「曲を完成させない勇気!?」です。