「年間100曲」ペンギンスのコーライトな日々

コーライティング(Co-Writing)で年間100曲を完成させ、職業作曲家としてメジャーアーティストに楽曲提供しているペンギンスが、毎日のコーライティングで想うことを書いてます。

コーライトが特別視されるのはなぜか

 こんばんは、作曲家のペンギンスです。少し間があいてしまってすみません。今日はタイトルの通り「コーライトという手法が、とりわけ日本国内で特別視されるのはなぜか」というのを考えてみたいと思います。
 海外ではWritingと言ったら普通Co-WritingなのでいまさらCo-Writingなどいちいち言わないそうです。Writing Sessionと言ったら当然Co-Writingなわけですね。それに対して日本だとまだ日が浅い言葉というのはありますが「コーライトしましょう」というと、あまり馴染みのない界隈だとまず間違いなくざわざわします。「何かあずかり知らぬ事態が起きようとしている(警戒)」みたいな感じですね。「みんなで作曲するだけだよ」という説明ではい終わり、のはずなんですが、なぜ特別視されるのか考えてみました。

1.作曲はじめ創作全般に対して「一個人の個性の発露である」という考えが強い

 小説を複数名で書くことは実験的なものを除けばあまり例がありません。これは小説に限って言えば日本海外問わず「一個人の個性の発露により表現されるもの」という考えが定着しているからだと考えられます。ところが日本では音楽も「個人の個性の発露」という考えが強いです。僕が思うにこれは日本ポップミュージックの始祖にあたるフォークミュージックの楽曲たちが「伝えたいことを歌詞にして歌にのせる」という「個人のメッセージの伝達手段」であったことが大きな原因だと思っています。「何人かの手を入れて良い歌詞に仕上がる」よりも「僕の私の心をそのまま切り取った歌詞が書けた」というほうが高く評価されたわけですね。なので作曲についても「僕の私の心の叫びをそのまま切り取ったメロディーが最高」という価値観が長らく支配しているものと考えます。となると自ずから、複数名の価値観が混ざり合ったコーライトソングは特別な例外となります。

2.議論をする習慣がない

 作詞・作曲・編曲を分業する場合ならいざ知らず、コーライトだと必ず「人が作ったバージョン1に対して意見を言う」場面が訪れます。コーライト経験者ならわかると思いますがこれがやはり思った以上にしんどいです、てか気を遣います。その上で自分の個性がいかんなく発揮されたメロディーを直されるわけです。なんでわざわざコーライトしなきゃいけないんだと思いたくもなりますね。全体的にやはり議論をしてものごとを決めていく場面が諸外国と比べると少ないのかなと思いますので、それがコーライトを特別視することに繋がっているとは思います。映画やゲームは、議論しながらみんなで作ってると思うんですけどね。ここらあたりはやはり上記の「フォークミュージックから来た個人主義」が影響してる気がします。

→ではどうすればいいのか

 個人的には、「バンドで曲作るときのこと思い出してみなよ」と言うのがいちばん効果的な気がしています。
 日本でコーライトは根付いていないけど、バンドが集まってみんなで曲を作ることはよくあると思うんですよね。だいたい主導権を握ってる最初のデモの制作者がいて、決定権はたいていボーカルにあったりして(笑)。で、みんなでスタジオで音だしながら、実際に演奏してみて、「ここはもっとこうするか」みたいに曲を作っていく。あちこちのバンドでよくある風景です。
 これって要するにコーライトの一形態だと思うんですよね。コーライトだって大抵はソングライティングに関して「最初のきっかけを作る奴」「完成まで導く奴」「決定権を握る奴」といった役割がありますが、これってバンドが曲作るときと何も変わりません。だからあまり難しいことは説明せずに「バンドってみんなで音だしながら曲作って、バンド名義でリリースするじゃないですか。あれと同じことを作曲家もやりましょうよ。バンドと同じで、印税も山分けで。」というシンプルな言い方をするのが一番くせがなくていい気がしています。既存のものにあてはめて説明するとわかりやすいですしね。
 少しでもコーライトが当たり前の日常になればいいなと思っています。