「年間100曲」ペンギンスのコーライトな日々

コーライティング(Co-Writing)で年間100曲を完成させ、職業作曲家としてメジャーアーティストに楽曲提供しているペンギンスが、毎日のコーライティングで想うことを書いてます。

日本人コーライト不向き説を検証

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こんにちは、作曲家のペンギンスです。

 前回は、遠慮せず意見を言うことが苦手な人は多いが、そこはかなり簡単に乗り越えられる。ただ出てきた意見をうまくまとめることは確かに難しい、という話をしました。今回はその話の中で出てきた「日本人コーライト不向き説」についてお話ししたいと思います。

 まず初めに結論から。およそ「xx人xxx説」というのは原理的にまず間違いなく嘘です。国籍であれ人種であれそういった大き目のくくりで人をくくった上でそこに一貫した性格・能力の偏りを見出すというのはあまり知的な態度ではないと思ってます。その上で、残念ながら一般的にそういう会話が交わされる場面も多いので、「強いていえば経験則の範囲ではこういう傾向はあったかもしれないね」という主観強めの話をしているのだとご理解いただいた上で以下をお読みください。

 コーライトについて論じる上で、あまりスポットが当たらないけれど実は重要なんじゃないかと思っている点のひとつとして、「作っている音楽が芸術的というよりは商業的なものである」というのがあると思います。「コーライトでどんな曲でも作れるし、作ったっていいじゃないか」と思うかもしれません。でも考えてみると、「コーライトで4名が力を合わせて純粋な芸術的音楽を書きました」という場面を想像してみても、いわゆる現代音楽の実験的な場面以上のものが思いつかないんですよね。コーライトするということは、誰かひとりの感情や信念だけを元に曲を作るのではないということです。コーライトするということは、そこに個性の融合が発生するということであり、つまりディレクションが発生するということです。ディレクションが発生するということは、「目的」が絶対に必要になってきます。そう、「目的なきコーライトは存在しない」のです。目的なき音楽、ただ美しい音楽、作りたいように作る音楽というのと、コーライトは両立しないのです。コーライトする以上はなんらかの目的を設定し、それをメンバー全員で共有して、クリアする必要があるのです。
 となると、「コーライトに向いている」というのは、「目的合理性が高い」ということになり、「コーライトに向いていない」というのは「目的合理性が低いから」ということになります。こう整理してみると、「日本人コーライト不向き説」というのは「日本人目的合理性が低い説」というふうに言い換えられるということがわかります。さて、日本人って目的合理性が低いのでしょうか?
 思い当たる節としては、かつて必要に応じて作られたルールが、時代に合わなくなってしまった時に、ルールを変えることをせずに延々とそのルールを守ることを目的化してしまうといった傾向は確かに日本によくある話です。目的と手段を混同することが多いのかもしれません。なのでもしコーライト不向き説というのが成り立つとしたら、「目的合理性が低いからなんのためにコーライトしてるのか忘れてコーライトすること自体が目的になっちゃうからそんな奴にはコーライト向いてないよ」という話になります。
 確かにそうかもな、と一瞬思いますw。
 ただ言うまでもないことですがこれって個人の努力で乗り越えられる話でしかないし、xx人xxx説の枠組みで語る不毛さを上回る結論でもないですよね。だからやっぱり思うんです。必要ならコーライトすればいいし、不要ならコーライトしなければいい、と。そうやって割り切れるタイプの人にとっては、どの国で生きていようとも、コーライトは便利なツールであると思います。

【次回予告】
次回は「リファレンスという考え方」です。