「年間100曲」ペンギンスのコーライトな日々

コーライティング(Co-Writing)で年間100曲を完成させ、職業作曲家としてメジャーアーティストに楽曲提供しているペンギンスが、毎日のコーライティングで想うことを書いてます。

コーライトの成否は「3人目」の力次第-「3rd person skill」の重要性-

こんにちは、作曲家のペンギンスです。
永谷園のチャーハン食べたい。

今日は考察を書きたいと思います。
ここ最近、仲間とずっと話し合っていたことです。
長文です笑

タイトル通り、コーライトの成否は3人目が握ってるよ、って話をします。

「なんで?コーライトじゃなくてもいい曲できるよ。2人だってできるよ。3人目って数え方次第じゃない?なんでその人が握ってるの?」

もっともな疑問です。

でははじめます。

*

コーライティングをするとき、特に対面で会って、会話してリアルにセッションをしていく時。よくあるチーム編成は、ひとりがトラックメーカー、ひとりがシンガー、そしてもうひとり、というものです。

このとき、この「もうひとり」っている意味あるのでしょうか?

トラックと歌があれば音楽はできます。じゃあ、トラックもシンガーもできない人がいる意味ってあるのでしょうか?

あります。

超あります。
そしてこの人がコーライトの成否を決めます。

という話をします。

巷でいわれている「コーライトも”よしあし”ですよね・・・」という事実上の「コーライト否定論」については、おそらくこの「もうひとり」が"よしあし"ですよね・・・という話かと思います。

完全に肯定します。コーライトも「よしあし」です。

「あし」のほうにしか出会う機会がなかった方が、コーライトに否定的な見解を述べられることは無理もありません。むしろ「悪いコーライト、低レベルなコーライト、無意味なコーライト」にしっかり声をあげてくださっているのは音楽愛、プロとしての矜持の証拠です。僕は現場のリアルに根ざした誠実なクリエイターの意見としてリスペクトしたいと思います。


*

改めて、コーライトってなんだろう?
と考えると、音楽っていう「モノ」を複数名で作り上げるわけですよね。

作るモノが、音楽であれ、映画であれ、服であれ、万里の長城であれ仏像であれ、、。複数名が関わって作り上げる時には、大きくわけて2つの役割があります。

ひとつが「目に見えるものをつくる仕事」です。音楽でいえばこれは「直接耳にきこえるものをつくる仕事」といってもいいでしょう。

例えばシンガー(歌手)は、声を出して歌をうたい、その歌がレコーディングされてリスナーの耳に届きますから「直接耳にきこえるものをつくる仕事」といえるでしょう。

またトラックメーカー(アレンジャー)、そして楽器演奏者(プレイヤー)も、DAWでつくったビートやアレンジ、ピアノやギターの演奏がリスナーの耳に入りますから「直接耳にきこえるものをつくる仕事」といえるでしょう。これがひとつめの役割です。

そしてモノづくりにおけるもうひとつの仕事は「目に見えないものをつくる仕事」です。音楽でいえばこれは「直接はきこえないものをつくる仕事」です。

そんなものあるのか?と思うかもしれませんが、じつは「作曲家(作詞家)」こそがこれにあてはまります。作曲家が紙に書いたりDAWに打ち込んだメロディーは、そのままでは世に出ていきません。トラックメーカーの手によって鳴らされ、シンガーによって歌われないと存在しないのと一緒です。作詞家が紙に書いたりWordやメモアプリに書いた歌詞は、そのままでは世に出ていきません(基本的にね)。これまた「シンガーによって歌われないと存在しないのと一緒」なのです。

こうしてみると、この目に見えないものを作ることが、いわゆる「コンセプトづくり」のようなものだということがわかってきます。「歌詞」と「メロディー」というのは直接のモノづくりではない。でもだからこそ、ここがうまくいったときの価値は無限大です。アイデアひとつで、曲の価値が一気にふくらみ、名作・傑作ができる。そういうイメージでしょうか。

「コーライティングをするとき、特に対面で会って、会話してリアルにセッションをしていく時。よくあるチーム編成は、ひとりがトラックメーカー、ひとりがシンガー、そしてもうひとり」と私は冒頭に書きました。で、これ超大事なのは「まずそういうふうにものを見てますか?」ということなんです。

作曲家・作詞家が中心にいると思ってません???

トラックメーカーが「アレンジを手伝ってくれる」とか、仮歌さんが「メロに合わせて歌詞を歌ってくれる」と思ってません???

そうじゃないんすよ!

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ちょっとぼくが温泉でつくった図を貼りますけども。

このAのところが「旧来型の作詞・作曲家」で、Bが「シンガー」で、Cが「トラックメーカー」で、Dが「3rd person」です。

で、僕みたいにトラックメーカーでもなくシンガーでもない人間がコーライトしているとつい「作詞・作曲をする」という考え方=「図中のAだけやってればいい、という考え方」をしてしまいそうになりますが、それだけじゃ今の時代価値を生み出せてないんですよ。

僕が思うに、いま同時代を生きて活躍しているクリエイターで、Aだけしかできないという人はまず見かけないです。

必ずシンガーであったり、トラックメーカーとして優れていたりします。

とはいえ「シンガーでもトラックメーカーでもないけど、優れた作詞家・作曲家である」という人も確かにいます。

そう!その人はまさにA+D・・・
コミュニケーションやアイデアや人望や営業力で付加価値を生む「3rd person」なんですよ!!!(超太字)

この話はどうしても「はいはい、商売上手になれってことね」みたいなメッセージにも聞こえてしまうので、あえてアート寄りな表現をすると・・・

「仏作って魂入れず」とはよく言ったもので、まさにトラックメーカーとシンガーが、目に見える「仏」を作ったとしても、そこに3rd personが目に見えない「魂」を入れなければ、音楽という「仏像」は完成しない・・・と言ってもいいでしょう。


そしてこれは言うまでもない話ですが、「3rd person」という表現はあくまで「コンセプトを説明するためのもの」で、コーライトは3人でなきゃいけない必然性はなく、2人でもいいし4人でも5人でもいい。3rd personという言い方が取ってつけたようであれば「第三者視点」とか「付加価値つける係」とか、既存の単語でいえば「ディレクション」とか「プロデュース」とかでもいい。たとえば2人でコーライトしていて、いつも素晴らしい曲ができて結果もよい、となった場合、これは2人でコーライトしてるけどそこに「3rd person」のスキルを持った人がいるからなんですよ。

もっといえばコーライトじゃない、1人で曲を作っているひとで、良い曲を作るひともいれば、そうじゃないこともありますよね。ひとりでだって素晴らしい曲は、さっさと、ごまんとできる。当たり前です。

その違いって、その人がじぶんのなかに「3rd person skill」を持っているかなんですよ。

コーライトというか、音楽の成否を決めるのが「3rd person skill」なんですよ。

こう書くと、コーライトという「せまい話」に限らない、音楽をつくる上で一番大事なスキルが「3rd person skill」なのだ、ということがわかると思います。

ひとりでつくるにしても、コーライトするにしても。仏に魂を入れるパスポート、それが3rd person skillなのだ!ということだとおもいます。

*

長々と書いてしまいましたが。

いちばん大事なのは「トラックメーカーでもシンガーでもない(私のような)人間」が、たんに「作曲家」と名乗ることができる時代は、テクノロジーの進化とポップ・ミュージックの発展によって終わりつつある、という(自己)認識です。

今や音楽は「トラックメーカー」という「実際に物理的にスピーカーから出る音をつくる人」と、「シンガー」という「実際に物理的に歌を歌う人」の2つの役割があれば成立します。(1人でこれをやってる宅録SSWもいますね)よくよく考えると、紙とペン(DAWであるにせよ)で「メロディーを書いて」「歌詞を書いて」いる人。

いりますか?

「よほど良いメロディーや歌詞ならばいるだろう」というのもその通りです。まさにその通りで、今や作曲家には「よほど良い」ことが絶対条件として求められています。そしてこの「よほど良い」を要素分解すると、そこには「ヒットする可能性がある」「感動する」「人を惹きつける驚きがある」といったなにかの「付加価値」が欠かせないということになります。その価値をうみだす「3rd person skill」が、音楽家として「仏に魂を入れる」ために一番たいせつなものだ」ということをお伝えしたいです。

とても一回のブログでは書ききれない内容だと思います。異論・反論もあると思います。あとこの話はたぶん誤解を招きやすいので、いろいろな誤解がきっと一人歩きしていくと思います。SNSで見かけたらそっと読みます。そしてなにか補足や訂正が必要だったり、自分のなかで考えが深まったら、またブログを書いてみたいと思います。

最後までお読みくださり本当にありがとうございました。